「暁夢の湖湘」
呉之東、画号は仙峰山人、瀟湘游侠、釣月山荘主人。画家、書家。1961年、中国湖南省邵陽市の書香の家に生まれた。祖先は代々、私塾を開いて文明の火種を伝え、父の世代も人を教え育てることを楽しみとしていた。幼いころの呉之東は、一方では両親の厳しいしつけと文化的な薫陶を受けて「人はみずから強くあるべし」という多くの道理を学び、それが彼の「鴻鵠の志」を呼び起こした。他方では、故郷・仙峰山の青い山と緑の水、美しい環境が、自然への愛と美しい情操を育み、同時に、おおらかな度量と「天公と高さを試み比べんと欲す」遠大な理想をも鍛え上げた。
幼いころから聡明だった呉之東は、強い好奇心と知識欲を持っていた。その炯々と輝く眼差しは、いつも新しいものへの大きな関心と強い渇望を表し、そのため彼は美を、美しい自然と人間性を見ることができた。まさにその輝く眼が、ある偶然の機会に、中国の当代の著名な画家であり美術教育者で、当時邵陽市群衆芸術館の美術担当だった陳西川氏の目に留まった。陳氏は彼を、美を見いだし、美を表し、美を創り出せる得がたい「素材」だと見たのである。こうして呉之東は、陳西川氏の丁寧な指導のもと、堅実で系統的な絵画の基礎訓練を受けた。陳西川というまれにみる「伯楽」が、呉之東というさらにまれな「千里の馬」を見いだしたのだった。
長年の勤勉な修練を経て、1981年、呉之東は湖南師範大学芸術学院美術学部の国画専攻に無事合格した。四年間の学窓の日々、顔家龍、蔡徳林ら名師の指導を深く受け、歳月は流れ、春に花が咲き秋に実がなった。彼は丹青を揮い、墨筆を縦横に走らせて天分を存分に発揮し、とりわけ石濤、八大山人の画風を好んで、その精髄を深く会得した。勤勉で学を好み、古典を熟読して広く渉猟し、ただ黄老の学にだけは格別の思い入れがあって、深く研鑽し、その薫陶は大きかった。言動には道家の洒脱さがあり、詩人の才情を備えていた。そのため、現実の暮らしの表層では、この「千里の馬」は「世俗を超え、手に負えない」気性と人生態度を見せた。
大学卒業を目前にして、呉之東は人を驚かせる行動に出た。長沙市の岳麓山にある「蔡鍔墓廬」で、書画篆刻の個展を開いたのである。これは湖南省で初めて、在学中の大学生が開いた個人の書画展だった。さらに驚くべきことに、中国画壇の巨匠・黄永玉氏が、この展覧会のために「呉之東書画篆刻展」の文字を自ら書いて展示室の入り口に掲げ、画壇の先達がこの後進の芸術への歩みを十分に認め、大きな期待を寄せていることを示した。評判を聞いて見に訪れる人は絶えず、七万人以上にのぼった。当時、湖南テレビ、『長沙晩報』などの主要メディアが特集取材と報道を行った。これは「千里の馬」が仙峰山のふもとから岳麓の峰へと駆け上がり、世間の注目を集めて一時センセーションを巻き起こした出来事だった。
千里の道も一歩から。呉之東は目の前の成功に満足せず、馬を休めることなく前へ進まねばならなかった。彼には常人にはまれな先を見通す意識と、時勢を見極める鋭い眼があり、内陸の環境には芸術の発展に不利な要素が多すぎると感じた。1986年、呉之東は思い切って南の深圳を選び、芸術を追い求める道の「南国の夢」を始めた。そこで彼は、絵画の制作に励むかたわら、「之東画苑」という画廊を開き、自らの芸術のために、より広い発展の空間をつくった。当時、深圳で個人の画廊を開いていたのは二、三軒にすぎず、「之東画苑」は絵画芸術の精緻さと風格の独自性によって際立ち、非凡な影響力を持った。一年後には、当時の深圳で最も高かった国貿ビルの最上階に「松風堂」という画廊を開き、芸術の境地をさらに一段高め、これによって絵画の「技」はますます精妙で円熟したものになった。しかし、揺れ動く心は、芸術の探求への強い渇望を抑えることができず、彼は次の芸術の夢を追い始めた。
「東瀛に夢を探る」
1988年、呉之東は日本へ渡り、「東瀛の夢」を始めた。これは人生の大きな転機であり、芸術創作が昇華していく出発点でもあった。
日本の島国に降り立ったばかりの呉之東は、自らの芸術の夢を実現するため、すぐに東京学芸大学に入り、日本の書道と絵画を研究した。中国と日本は同じ文化圏に属し、日本文化は中国の伝統文化を大きく吸収し、受け継いできた。しかし、両国にはそれぞれ異なる歴史的背景と民族的特質がある。大和民族の島国の心理と「義理」の観念は、日本民族に特有の生活様式と思考様式を生み、「もののあはれ、風雅」の美意識と、「わび・さび、淡泊と純真、幽玄」などを尊ぶ審美観を形づくった。これらすべては、呉之東にとって、見知らぬものから慣れ親しむものへ、適応し融合していく過程を必要とした。彼は、現代の物質文明が急速に発展した国際的大都市の華やかな暮らしを身をもって体験し、日本民族独特の風土と人情に触れた。そのような速いテンポと高い利益を求める生活様式の中では、立ち止まろうとする人も、まして静かに考えようとする人もいないように思えた。浮ついた都市、浮ついた人、浮ついた心。これらはもともとの「道」とは縁がないものだった。呉之東は深い戸惑いと焦りに陥った。そこで、日本各地の大小の美術館に足を運び、西洋と日本の優れた芸術と進んだ文化に触れて、江戸時代以来の浮世絵にはとりわけ惹かれ、大いに啓発された。それから、都会の喧騒を避け、屋根裏部屋にこもって静かに苦しい思索を重ねた。中国の伝統芸術の歴史と現状を省み、いま目の前にある奇怪で雑多な現代芸術を見つめ、自らの創作の出口を探ろうとした。この生活の境遇と日本の文化的文脈は、彼に自らの芸術の道に新たな選択を迫り、まさにこの新しい境遇が、創作の革新と発展に新たな契機を与えた。1991年、呉之東は東京で自らの美術アトリエ「ATELIER・縦横」を設立し、ここから書と絵画の、まったく新しい創作と探求の道を歩み始めた。
日本では、南宗画の系統に属する南画が正統とされ、馬遠、夏珪から雪舟へと続く道は、虚空と静謐の大道である。隅に寄せた構図と省略の筆法は、万有の複雑な現象のなかにある一種の超越的な冷淡さと見なされ、彼らは寂静と清幽を尊ぶ(中国では平淡天真という)。若いころ道家の哲学と禅学を深く研究していた呉之東は、日本文化のこうした審美意識と情趣を容易に受け入れることができ、その審美観を自らの芸術創作の実践に貫くことができた。
この時期に呉之東が制作した作品の多くは、静かな山林や荒野で、静止し、あるいは飛翔する動物を描いたものである。とりわけ密林の奥にいる孤独な梟が多く、しかも往々にして、言葉にできない神秘性を漂わせている。この超然とした静けさと神秘性が、劇的な対立の効果を生み出している。ヘーゲルは、懐疑論は疑惑ではないと言った。疑惑こそ平静の反対であり、平静は懐疑論の帰結である。そして禅は、疑いを通して平静を得る。もちろん、禅のこの平静は、荘子の言う「形は枯木のごとく、心は死灰のごとし」というものとは必ずしも同じではない。「静非具寂」(黄式三『儆居集』)、『壇経』にも「心に往きて静を観るは、是れ病にして禅に非ず」とある。一方で、呉之東の作品には、「動」と「静」の矛盾、対立と統一を描いた情景(『鶴』『翔』『暮』など)があり、禅の「刹那が永遠」という境地が表れている。そこで彼が表しているのは、まさに禅の大師たちが追い求めたもの、すなわち「有」と「無」、我と非我(仏)を一つに統一することであり、彼らの言う「仏は性中に向いて作せ、身外に向いて求むることなかれ」(『壇経』)、「即心即仏」「非心非仏」の刹那に永遠を得る、ということである。
呉之東の芸術創作は、自然界での体験を直感に委ねるものである。禅もまた知性を超えて直感に訴え、両者はともに絶対の境地を追求する。彼の作品の審美的価値は外在的な形式にあるのではない。描かれる対象は自由自在で、束縛されず、外的な要因に制約されず、一枝一葉にも禅の意があり、どれも絵になりうる。禅は渾然一体で、対立(美・醜)がなく、それは不二の世界であり、分別も思慮もないがゆえに、本心を照らし出すことができる。この状態は自然無為であり、絵を描くことは興が来れば筆を随えるだけで、自分が画家であることを忘れ、絵を描いていることさえ忘れる。わが国の古代の文人画家が「絵画は余事なり」と言ったとおりで、画家に心(機)を手放させることなのである。
悟道と高逸を求めて、呉之東の芸術創作の風格は、形式における「簡」と、内容における「寂」を追求する。形式では、ほとんどの作品が画面全体に、単一の動物か単純な情景だけを表している(一羽の梟『森の神』、一頭の虎『王者』、一匹の猫『猫』、一尾の魚『鱗光』、『一匹の狼』、一頭の馬『駿』、一座の山『富士の明月』など)。ある動物のクローズアップ(梟の頭部の『梟』など)さえある。構図は簡潔で、主体が際立ち、背景は単純にまとめられ、主題は鮮明である。内容の「寂」では、空茫、沈黙、孤独で象徴することが多く、とりわけ閑雲野鶴(『鶴』)、松風に静かに耳を澄ます(『鷹』)、石に坐して雲を観る(『虎』)、広漠とした野原(『一匹の狼』)、静かな夜の明月(『月夜』)といった情景で、俗世を脱した追求を表している。これこそが、呉之東の絵画作品の芸術的価値のありかである。
呉之東の絵画芸術は、さまざまな記号とイメージの組み合わせによって、現代人の生命観、自然観、そして人間の心の最も深い衝動を一つに溶かし合わせ、最終的に「道」の追求と体験として現れる。呉之東は、「道」は人生の根本の真理であり、書と絵画を通して道を悟り、人格の鍛錬と向上を求めるのだと考えた。それは一種の静功であり、一つの哲学であり、絵画芸術の最も高い次元でもある。
「周荘に夢を尋ねて」
呉之東氏は博識で、研究の領域は広く、金石書画、美術史論、詩詞篆刻を融会貫通し、多方面で成果を上げた。現代世界の画壇で実力と影響力を併せ持つ画家の一人として、呉之東は中国の伝統文化と人文精神について深く研究し、独自の感悟を備えている。日本滞在中には、中国の書道芸術や中国美術史などについて30万字余りの理論的著作を執筆し、日本の美術界に大きな影響を与えた。『仙峰山人書藤王閣序』『呉之東画集』など、さまざまな書の集や画集も出版し、成果は豊かである。感嘆すべきことに、彼は中国の湖南省長沙・邵陽、広州、深圳、香港、台湾、日本の各大都市で、書画の個展を180回あまり開催した。作品は日本、香港、台湾、欧米など20以上の国と地域の著名な美術館、ギャラリー、コレクターに収蔵され、国内外に名を轟かせ、日本で高く評価され、欧米にまで広く伝わっている。
そうでありながら、長く日本に暮らした呉之東は、祖国の文化芸術の現状と発展への強い関心を忘れたことがなかった。そこは、結局のところ、彼の芸術の夢と人生の理想が醸成され、昇りはじめた熱い土地だからである。そのため彼は、中国の芸術事業の改革と革新、そして発展のために多大な心血と努力を注ぎ、身をもって様々な形の支援と施策を行った。2007年、中国江蘇省の古鎮・周荘の関係政府部門は、呉之東の大きな支援と緊密な協力のもと、国内外の著名な画家が集う「国際画家村」を創設し、呉之東が芸術委員会の会長に就いた。芸術の夢を追い続ける呉之東にとって、これは疑いなく開拓的な事業であり、任は重く道は遠いと感じた。そこで彼は意気込み、大きな情熱を傾けて、「画家村」の組織づくり、拡充、芸術文化の国際交流などの仕事に全力で取り組み、疲れを知らず東京と周荘の間を行き来して、「画家村」の建設と繁栄のために惜しみなく汗と心血を注いだ。2010年8月26日、彼の個人美術館が「画家村」に落成し、盛大に開館して、現代美術界と文化芸術界に大きな注目と強い反響を呼んだ。これは中国の美術事業への大きな貢献であるばかりか、中国美術史に輝かしい一頁を開くものでもある。
「呉之東美術館」が中国の周荘国際画家村にそびえ立ったことは、疑いなく中国現代芸術史上の一大盛事であり、いま多くの画廊や美術館が次第に色あせて沈黙していく背景のなかで、ひときわ際立つ輝かしい光である。これは、在日20年余の「国際桂冠画家」の長年の願いを実現し、彼の芸術事業の発展の歩みにおける輝かしい里程標となり、同時に次の芸術の高みへの旅の幕を開けるものであった。さらに、中華民族の絵画芸術の精神を広め、周荘「国際画家村」とその周辺、ひいては全国の芸術資源を動かし、活性化し、統合し、芸術家同士の交流と対話を深め、中外の文化芸術交流を促すために、実践的で双方向の、発展につながる有益な場を提供するものであり、現実的にも歴史的にも大きな意義を持ち、「画家村」の一大人文景観となっている。
呉之東のこの偉大な創挙は、必ずや歴史に刻まれるであろう。
「頂を追う夢」
今日の世界の多元文化の背景のもと、芸術の「グローバル化」という喧騒のなかで、多くの芸術家が我先に抽象的で荒唐無稽で奇怪で浮ついた「現代芸術」を追い求め、あるいは大衆に迎合し、もったいぶってパフォーマンスアートをもてあそび、あるいはいわゆる迫力ある画面と壮大で深い歴史感を追い求めているとき、呉之東は哲人の沈思と冷静な眼差しで現実と芸術を見つめ、東洋人に特有の幽玄、虚静、超然、寂廓の美学理念と審美意識により、素朴な画風と精湛な技で頭角を現し、注目を集めた。ある意味で、呉之東の絵画芸術は、現代文明と人間性の衝突という人類の生存の困境への深い省察と批判、そして伝統文化の変質と人文精神の喪失に深く戸惑うことから生まれたものである。彼は芸術家の誠実さと鋭敏さをもって、現代文明の混沌とした断片のなかで、人と自然、動物の三者の関係のあいだに、芸術表現の形式の最良の視点を見いだし、内なる均衡と自己の超越に達し、真の芸術家が表現したいと望む視覚と精神の混合体を形づくり、内なる生命の張力を示した。「芸術にはやはり渇望がなければならず、内なる駆り立ては、人間の精神に新しい価値を創造するための力を必要とする。意識的であれ無意識的であれ、人間は、自分の体内に精神の形で存在するこの価値観のために、具体的な形式を探し求める」(カンディンスキー『形式の問題について』)。
ふだんの暮らしではきわめて控えめで謙虚な呉之東は、芸術創作においては非常に厳格で高い格調を示し、絶えず完璧を追求し、芸術と人文精神の高度な結合を追い求めた。彼の作品の一枚一枚は、冥想と苦心のすえに心血を注いで生み出した結晶であり、生命の脈絡とリズムが脈打っている。しかし創作の過程では、思いのままに、余裕をもって筆を運んだ。まさに「思いを運らし筆を揮うに、意は画に在らず、故に画を得たり」と言うとおりである。一筆一画、一点一綴、一勾一勒のすべてに、抑えきれない創作の情熱と高尚な審美の趣味が満ちており、厚みがあり、強く、神秘的な生命の力、冷静で理性的な深い思索、大自然の環境への切実な関心、人と動物、自然との距離、疎遠と親近、融合についての策と演繹、おおらかで洒脱な人生態度が込められている。これこそ、彼の作品が絶えず革新し、完璧の境地へ進み続けることができた内なる原動力であり、彼の人格的魅力の反映と外化でもある。
呉之東の絵画芸術の言語図式は、客観的な現実世界に対しては、さまざまな記号の集合体にすぎない。ウィトゲンシュタインの言うところでは、私たちは言語の図式によってある事象を模擬することができ、言語は実在に対する一つの指号である。ソシュールにとっては、言語体系において、シニフィアン(能記)は意味を担うもの、シニフィエ(所記)はシニフィアンが指し示すものである。指称とは、シニフィアンとシニフィエを結びつけて記号を生み出す過程である。記号は一つの関係として理解されなければならず、この関係は指称の体系の外では意味を持たない。したがって、意味とはそれ自体は無意味な再現体系の産物である。ゆえに、呉之東が作品に描いた一つ一つの動物の形象、一つ一つの風景、さらには一塊の色面、一本の線までもが、彼の絵画言語の体系の中で表された審美理念と内面世界のさまざまな記号にすぎず、それら自体は形式のうえで何の意味も持たず、所記の能記にすぎないと言える。呉之東はこれらの記号を分化・解体し、組み合わせ、精錬・純化して、高度な芸術技巧と独特の処理手法によって、神秘的な鏡像、味わい深いイメージ、文化的内包に富んだ審美理念へと変えた。ある意味で、呉之東の制作は、哲人が人類の生存の価値と意味を思索し探求しているかのようである。
呉之東は中国の伝統文化に深く育まれ、漢文化の深い素養を持ち、さらに日本文化への深い理解を加えた。作品のなかで、彼は中国の伝統文化の合理的な核を断固として守りつつ、日本民族文化のいくつかの「常識」や理念を、それに応じて融合・統合し、展開した。
呉之東の絵画作品からは、程度の差はあれ、二つの基本的な特徴を感じ取ることができる。一つは、絵画のモチーフの独自性と、それが映し出す日本民族の深層の心理構造や民俗文化の形態。もう一つは、作品を通して表される、きわめて微妙で神秘的な生命体験からにじむ禅の意識である。
呉之東の作品では、梟が繰り返し現れる形象である。これは作者がこの神秘的な意味を帯びた「森の神」に特別な思いを寄せているからだけではない。このモチーフが絶えず強調されることで、日本人の目には、梟は吉祥の物であり、美しいものの象徴と映る。呉之東は、梟のさまざまな生存状況と、そこに表れる神秘性を一連の作品で描くことで、芸術化された記号の表象を通して、日本民族の集合的無意識と文化的心理の原型を明らかにし、鑑賞者に「内的模倣」の心理体験と感情の昇華をもたらした。
呉之東の絵画芸術は、中国の伝統芸術の脱構築と再構築である。非歴史的な脱構築は、時間を仕切りとして新旧を分け、新旧を進化論に当てはめて生命力を決めるものだが、絵画の発展と変遷は、多くが図像を根拠とし、あるいは図像を道具とするもので、そこから生まれる現代あるいはポストモダンの文脈は、精神を脱構築すると同時に、伝統の支えをも断ち、徹底した自由の状態に至る。この境遇において、呉之東は直感、すなわち禅宗の「直ちに如来に超える」やり方を用いて自らの審美理念を実現した。あるいは古代ギリシャのヘラクレイトスの言う「私は自分自身を探していた」ように。
呉之東の作品『翔』では、翼を広げて飛ぶ大鵬が雲を突き霧を破って勇ましく進み、背景には日本一の高峰・富士山が配されている。その気勢は雄大で、山河をのみ込むほどであり、人間の勇敢で粘り強い精神と、自己に挑み、不屈に進む英雄的気概をたたえている。一方、同じく飛翔する動物を題材にした別の作品『鶴』が観る人の前に示すのは、まったく異なる感覚である。金色の日差しが満ちる芦の上空を、何羽かの仙鶴が連れ立って飛んでいる。ここは静かで人のいない世界だが、限りない生気に満ちている。濃い青の空が黄金色の芦をいっそう明るく躍動的に引き立て、風にそよぐ芦が定着した画面を活き活きとさせ、仙鶴の舞うような軽やかさを強めている。ここで私たちは、仙鶴の鳴き声が聞こえてくるような気がする。まるで天の音楽のようだ。これは自然への回帰の呼びかけであり、作者の自由と美しいものへの憧れと渇望を表している。
『一匹の狼』は、黒雲が渦巻き低く垂れ込める広漠とした野に、一匹の孤独な狼が遠く暗い地平線からこちらへまっすぐ駆けてくる姿を描く。蛍光を帯びた提灯のような二つの目は、何かを探し、何かを待ち望んでいるかのようだ。狼には家がなく、あちこちをさまよっている(さすらいは人生の永遠のテーマであり、人は一生のあいだ故郷を守り続けられても、心の悩みと放逐はいつもつきまとう)。足を止め、ためらい、戸惑う表情は、いったいどこから来て、どこへ向かうのかと人々に問いかけているようだ。人間のあらゆる活動に、さらには文明の歩みにまで深く影響を及ぼす最も根本的な心理、すなわち生きることへの戸惑いと不安が、呉之東の筆によって動物の世界の中で、これほど真に迫って余すところなく表現されている。これは、人間の生存状態のもう一つの縮図である。
『暮』は、視覚的に夢幻のような感覚を与える。暮色は蒼茫とし、夕日が西に沈み、大地は寂しく神秘的で重苦しい薄闇に包まれている。すべてが孤独のなかでひそかに消えていくようで、万物はやがて滅びるのだろうか。留まるべきか、飛び去るべきか。それがまさに、この二つの自然の生き物が直面している選択である。画面の光と影、明と暗、黄色と紫、動物の動と静など、絵画の諸要素の強烈な対比が内的な張力をつくり、衝突と矛盾に満ちた苦痛の世界を表している。作者は絵画芸術の表現形式を通して、人間の生と死の問題を形而上的に思索し、「存在と滅亡」という古くからの哲学的命題を、独特で新しいやり方で演繹した。
呉之東の絵画芸術の風格は、芸術の発展における必然の現象であり、芸術が現実を表現する必然の趨勢のなかで生まれた必然の産物である。古典主義やロマン主義は、工業生産の時代の人間の暮らしを表現する任務をとうに担えなくなった。写実主義も、大工業生産の時代、人類が自ら生み出した高度な物質文明が生存の選択に突きつける厳しい挑戦を前にして、色あせて力を失い、人々により多くの思索と探究をもたらした。そこで現代主義が時代の求めに応じて生まれた。21世紀は散文化・多元化の時代であり、前世紀のさまざまな現代美術の流派や思潮は、伝統的な文化芸術を強く踏みにじり否定する声のなかで勢いを増している。一方、絵画芸術はまた、現代のハイテク、とりわけデジタル画像の構成技術による挑戦に直面し、現代の人文環境と変わり続ける生活様式が、人々の価値観や審美の好みを変えつつある。したがって、絶えず革新し、制作の考え方を調整し、表現手法を改め磨き、時代の魂に合わせ、民衆の声を語ってこそ、偉大で不朽の芸術作品を生み出し、世界の芸術の林に立ち、広く観る人に喜ばれることができる。呉之東の芸術実践とその作品は、一つの成功した手本である。呉之東は脱構築的ポストモダニズム(deconstructive postmodernism)の言説を用いて、生気に満ちた世界を演繹した。彼の作品は自然と動物の人間化であり、人の対象化である。一つ一つの形象の記号に、一筆一筆の線と色に、自身の魂、信念、審美理念が映し出されている。
呉之東は東洋文化に通じ、西欧芸術にも深く通じている。彼は、十数億の人口を持つ中国に、ピカソやダリのような巨匠が現れないのは、われわれ民族の恥だと考えていた。因習に固執し、現状に安んじることが芸術発展の最大の禁忌であることを、彼はよく知っていた。呉之東の絵画言語は、伝統的な絵画の文法構造と表現の手順を大胆に打ち破り、シュルレアリスムの表現技法と印象派の色彩を用い、中国の水墨山水画の意境を溶け合わせて、意味は味わえても言葉にはできない、物我を忘れる境地を表している。そこには、容易には悟り得ない、人生の真諦を蔵した禅機が潜んでいる。
呉之東の絵画芸術作品は、一種の潜在的な論理空間を備えている。その造形要素と記号(線、色彩、光と影を含む)には、「我」の延伸と「非我」の反射、個人的無意識と集合的無意識の堆積、主体の客体への相互作用といった、限りなく豊かな意味が含まれている。
芸術は自然と生活の観察から生まれ、さらには自然と生活への感悟から生まれる。呉之東には、自然への鋭い洞察力と、深く独特な心の感悟があり、確かな写実の素養もあるが、断片的で客観的な現実の景観をただ複製したいわけではなかった。彼は一つの根本的な基礎、すなわち知覚の変わりやすさの下に必ず隠れているはずの「統一場」(unified field)理論を探し求めていた。呉之東の絵画作品に表されているのは、具体的な動物と特定の環境であり、それがいかに精緻で真実に描かれ、形も神も備えていようとも、現実の存在ではない。そこには神秘的な、さらには不気味な意味があり、それは荒唐無稽な存在であって、観る人を現実と夢幻のあいだにさまよわせ、望めども届かない気まずい状況に置く。鑑賞者と鑑賞される対象は、知らぬ間に互いに入れ替わり、景観が鑑賞者を包み込む。画家の在場と形象の所指によって、観る人は視覚領域における形象の知覚の形式から、きわめて微妙な「内的模倣」の審美運動へと進み、知覚される対象の「他者」となる。実際、芸術言語の曖昧さは、論理空間において、むしろ唯一の精確な絶対的真実に達し、精神的で審美的な真実を示す。呉之東にとって、事態(動物の形象や情景を含む)が作品に現れることは、真でも偽でもよく、それは重要ではない。作品がつくる論理的思考空間が事態として存在することだけで、それ自体の価値を証明するに足りるからである。
真に偉大な芸術家は常に時代の最前線に立ち、現代と伝統の衝突のなかで最も賢明な選択を行う。今日に至る呉之東の絵画芸術が私たちに提起するのは、もはや「芸術は現実の生活を反映しなければならない」という問題でも、伝統の継承と革新の問題でも、「中西の融合」「油絵の民族化」の問題でも、純粋な芸術形式と審美機能の転換と演繹の問題でも、伝統文化のしがらみや主流文化の方向づけによって左右される問題にとどまるものでもない。それは実際には、人間の生命が芸術とどのように相互に作用し、共存して発展するのかという重大な問題と、人類の生存の危機と自然の調和的発展の問題を、私たちに突きつけている。そして、ある意味で、彼の作品は、現代文化が伝統文化に挑み、超え、剥ぎ取り、止揚することや、人間自身の本質的な力を実現することを理解するための最良の例証となり、現代人の精神意識、芸術形式、審美的傾向を脱構築する非常に強力な思想的武器となっている。これこそ、呉之東の絵画芸術の価値のありかである。
視覚芸術の形式の美学原則や写実主義の文法構造だけから呉之東の絵画作品を読み解こうとしても、無駄であり、無意味である。呉之東が表した芸術の境地は超自然の境地(彼は自然を描くことで自然を否定する)であり、すなわち客観世界が心理世界の主観的な統合を経て現した、価値的に自足した精神的な景観である。それは通常の知解力とは異なる非理性的な精神活動であり、まさに呉之東の内面世界の真実の写照である。したがって、観る人が作品を味わう過程は、実際には、自らの陳腐で世俗的な価値観に大地震が起きるのを経験することであり、自然に回帰し、また自然を超え、魂を浄化し、人間性を蘇らせる過程なのである。呉之東の絵画芸術はきわめて広い人文的背景を持ち、彼が追い求めたのは、人類の共通性を体現できるもの、具体的には人間的なものである。そのため、彼の作品は持続的で強い生命力を持っている。
呉之東は自然を尊び、生命を愛した。大自然の本質は生命だからである。呉之東の絵画芸術は、生命への恋であり、同時に人間の生命の本体の超越でもある。
呉之東の絵画芸術は、中国の伝統文化の底蘊と神韻を備え、日本民族文化の特質を備え、造形の観念と表現技法においては西洋芸術の精髄をも体現している。したがって、呉之東の絵画芸術は彼自身のものであるだけでなく、世界全体のものである、と言うことができる。
晩唐の著名な詩人・李商隠の『錦瑟』に言う。「錦瑟 無端 五十弦、一弦一柱 華年を思う。荘生の暁夢 蝴蝶に迷い、望帝の春心 杜鵑に託す」。呉之東は芸術の帆を揚げ、夢の翼を広げて、私たちに向かって駆けてきた。長年の苦闘と勤勉な探求を経て、成果は豊かで、功績は非凡である。いま五十歳を迎えた呉之東は、なお疲れを知らず、壮志は衰えず、永遠の芸術の夢を抱いて、千里の道を縦横に駆け、群山のまた一つの峰を喜び見ている。
呉之東は今も歩みを続けている。崇高へ、輝かしさへ、生命の涅槃の境地へ。
黄燦(中国当代の著名な美術理論家・芸術批評家)
“晓梦湖湘”
吴之东,画号:仙峰山人、潇湘游侠、钓月山庄主人。画家、书法家。 1961年出生于中国湖南省邵阳市一书香门第家庭。其祖辈世代以开私塾传播文明之火种,父辈以教书育人为己乐。在吴之东的童年时代,一方面深受父母的严格教养和文化熏陶得知了许多“人当自强”之道理,也引发了他的“鸿鹄之志”;另一方面,也许是家乡仙峰山的青山绿水和优美环境,培养了他对大自然的热爱和美好情操,同时也铸造了他那豁达的胸怀和“欲与天公试比高”的远大理想。
自幼聪慧的吴之东具有强烈的好奇心和求知欲,他炯炯有神的目光总是表现出对新鲜事物的极大兴趣和强烈渴望,因此他看到了美,看到了美的自然和人性。也正是他那双炯炯有神的眼睛,在一次偶然的机会,得到了中国当代著名画家、美术教育家、时任邵阳市群众艺术馆美术干部的陈西川先生的赏识,认为他是一个能够发现美,并能够表现美和创造美的不可多得的“材料”。于是,吴之东在陈西川先生的悉心指导下进行了扎实而系统的绘画基本功训练。正是陈西川这位十分难得的“伯乐”,发现了吴之东这匹更是难得的“千里马”。
经过长期的勤学苦练,1981年,吴之东顺利地考入了湖南师范大学艺术学院美术系国画专业。四年寒窗,深得颜家龙、蔡德林等名师的指点,韶华流年,春华秋实。他挥洒丹青,纵横笔墨,尽显天分,尤喜石涛、八大山人之画风,深得其精髓;他勤奋好学,熟读古籍经典,涉猎甚广,惟对黄老之学情有独钟,故钻研苦学,熏陶甚重,其言行颇具道家之潇洒,著骚客之才情。因此,在现实生活的表层,这匹“千里马”表现出“超然物外、桀骜不驯”的性情和人生态度。
大学毕业前夕,吴之东做出了一个惊人之举,在长沙市岳麓山上的“蔡锷墓庐”举办了一次个人书画篆刻展。这是湖南省有史以来第一个在校大学生举办的个人书画展。更令人惊叹的是,中国画坛巨匠黄永玉先生为此亲笔题写了“吴之东书画篆刻展”几个大字悬于展厅之首,显示出画坛前辈对这位后学的艺术追求的充分肯定并寄予厚望。人们慕名前往观之,络绎不绝,逾七万余人。当时,湖南电视台、《长沙晚报》等主流媒体对此进行了专题采访和报导,此乃“千里之马”从仙峰山下奔驰于岳麓之峰,为世人瞩目,轰动一时。
千里之行,始于足下。吴之东并不满足于眼前的成功,他必须马不停蹄、勇往直前。他具有一种常人少有的超前意识和审时度势的敏锐目光,他感到内地的环境有太多的不利于艺术发展的因素。 1986年,吴之东毅然选择南下深圳,开始了他艺术追求道路上的“南国之梦”。于是,他在努力创作绘画艺术的同时,开办了一家名叫“之东画苑”的画廊,为他的艺术营造了一个更广阔的发展空间。当时在深圳开个人画廊的只有二三家,而“之东画苑”以其绘画艺术的精湛和风格的独特性而独树一帜,影响非凡。一年后,他又在深圳当时最高层的国贸大厦顶层开办了一家“松风堂”画廊,使他的艺术之境界更上一层楼,由此他在绘画的“技艺”上日趋精湛和老道。然而,他那颗激荡不安的心灵使他无法抑制内心对艺术探索的强烈渴望,于是,他又开始了下一个追逐艺术之梦。
“探梦东瀛”
1988年,吴之东东渡日本,开始了他的“东瀛之梦”。这是他人生的一大转折点,也是他的艺术创作升华的一个起点。
刚刚踏上日本岛国的吴之东,为实现自己的艺术梦想,随即进入东京学艺大学研习日本书道和绘画。虽然,中国和日本属于同一文化圈,日本文化在很大程度上吸收、传承了中国传统文化,但是,中日两国毕竟有着各自不同的历史背景和民族特质,大和民族所具有的岛国心理和“义理”观念,造就了日本民族特有的生活方式和思维模式,以及“物哀、风雅”的美意识和崇尚“空寂与闲寂、清淡与纯真、幽玄”等的审美理念。这一切对于吴之东来说,无疑需要一个从陌生到熟悉、适应与融合的过程。他亲身感受了现代物质文明高速发展的国际大都市的浮华生活,领略了日本民族独特的风土人情。在那种快节奏、高利润的生活模式中,似乎没有人愿意停下来,更没有人愿意静下来去思考。浮躁的城市,浮躁的人,浮躁的心态,这一切注定与最原始的“道”无缘。吴之东陷入了深深的困惑和焦虑。于是,他出入日本各地大小美术馆,耳濡目染西方和日本的优秀艺术和先进文化,对日本江户时代以来的浮世绘尤为欣赏,深受启迪。然后,他避开城市的喧哗,躲进自己的阁楼静下心来苦苦思索,他反思中国传统艺术的历史和发展现状,审视当下光怪陆离、五花八门的现代艺术,试图寻找自己艺术创作的出路。这种生存境遇和日本文化语境迫使他必须对自己的艺术道路做出新的选择,而正是这种新的境遇为他的艺术创作的创新与发展提供了新的契机。 1991年,吴之东在日本东京创办了自己的美术工作室——ATELIER•纵横,从此开始了他的书法和绘画艺术全新的创作和探索之路。
在日本,南宗绘画所属的南画系统是为正宗,从马远、夏圭到雪舟,是一条虚空静穆的大道,边角构成和省略笔法被视为在万有复杂现象之中的一种超越的冷漠,他们崇尚寂静清幽(中国是平淡天真)。早年对道家哲学和禅学有过深入研究的吴之东,很容易对日本文化中的这种审美意识和情趣表现出体认,并能将这种审美理念贯穿到他的艺术创作实践中去。
这个时期,吴之东所创作的许多作品都是描绘寂静的山林或荒野中静止或飞翔的动物,尤其是密林深处孤独的猫头鹰,而且,往往显示出某种不可言说的神秘性,这种超然的宁静和神秘性构成了一种戏剧性的冲突效应。黑格尔说,怀疑论并不是疑惑。疑惑正是平静的反面,平静则是怀疑论的结果。而且,禅宗是通过怀疑而得到平静的。当然,禅宗的这种平静并非完全是庄子的那种“形如枯槁、心如死灰”。“静非具寂”(黄式三《儆居集》),《坛经》云:“往心观静,是病非禅”。另一方面,在吴之东的作品里那些描绘“动”与“静”的矛盾冲突和统一的场景(如《鹤》、《翔》、《暮》等),表现出禅宗的那种“瞬刻即永恒”的境界。在那里,他所表达的正是禅宗大师们所追求的——把“有”和“无”、我和非我(佛)统一起来,也就是他们所说的:“佛向性中作,莫向身外求”(《坛经》),在“即心即佛”、“非心非佛”的一剎那获得永恒。
吴之东的艺术创作是把对自然界的体验诉诸于直觉,禅则超越智性,诉诸直觉,两者都追求绝对的境界。他的作品的审美价值不在于外在形式,所描绘的对象自由自在,不被束缚,不受制于外在因素,一枝一叶皆有禅意,也皆可成画。因为禅是浑然一体、没有对立(美、丑),那是不二的世界,无分别、无思虑,所以能照见本心,这种状态是自然无为的,作画只是兴来随笔,忘记自己是画家,甚至忘记自己在作画,正如我国古代文人画家所说“绘画,余事也”,就是要画家把心(机)放下。
为求悟道与高逸,吴之东的艺术创作风格追求形式的“简”和内容的“寂”。在形式上,大多数作品的整个画面表现的只是单一的动物或单纯的场景(如一只猫头鹰《森林之神》、一只老虎《王者》、一只猫《猫》、一尾鱼《鳞光》、《一匹狼》、一匹马《骏》、一座山《富士明月》等等),甚至是某个动物的特写(如猫头鹰的头部特写《枭》),构图简练,主体突出,背景单纯概括、主题鲜明。在内容的“寂”方面,则往往以空茫、沉寂或孤独来象征,尤其是以闲云野鹤(如《鹤》)、静听松风(如《鹰》)、坐石观云(如《虎》)、苍茫原野(如《一匹狼》)、静夜明月(如《月夜》)等一类的场景,来表现脱出凡俗的追求。这正是吴之东的绘画作品的艺术价值之所在。
吴之东的绘画艺术通过各种符号和意象的组合,将现代人的生命观、自然观和人类内心最深切的冲动揉为一体,而最终表现为一种对“道”的追寻与体验。吴之东认为,“道”是人生的根本真理,通过书法和绘画来悟道,寻求人格的锻炼和提升。它是一种静功、一种哲学,这也是绘画艺术的最高层次。
“周庄寻梦”
吴之东先生学识渊博,研究的领域广泛,金石书画、美术史论、诗词篆刻,融会贯通,取得了多方面的成就。作为当代世界画坛颇具实力且极具影响力的画家之一,吴之东对中国传统文化和人文精神有着深入的研究和独特的感悟。旅日期间,吴之东撰写了关于中国书法艺术、中国美术史等30多万字的理论著述,在日本美术界引起了巨大影响。他还出版了《仙峰山人书藤王阁序》、《吴之东画集》等多种书法集、画册,硕果累累。令人赞叹的是,他曾在中国湖南长沙、邵阳、广州、深圳、香港、台湾、日本各大城市举办个人书画作品展览180余次。其书画作品被日本、香港、台湾及欧美等20多个国家和地区著名美术馆、画廊与收藏家珍藏,可谓蜚声海内,饮誉东瀛,远播欧美。
尽管如此,旅居日本多年的吴之东,却从未忘记对祖国文化艺术现状和发展的密切关注,那毕竟是他艺术之梦和人生理想酝酿和升起的一片热土,为此,他对中国艺术事业的改革与创新及其发展付出了巨大的心血和努力,并身体力行地作出了各种方式的的支持和举措。 2007年,中国江苏省古镇周庄有关政府部门在吴之东的大力支持和密切配合下,创办了云集海内外知名画家的“国际画家村”,并由吴之东出任艺术委员会会长。这对于不断追逐艺术梦想的吴之东无疑是一项开拓性的事业,他感到任重而道远。于是,他踌躇满志,以极大的热情全力以赴地投入到“画家村”的组建、拓展和进行艺术文化国际交流等各项工作之中,不知疲倦地穿梭于东京与周庄之间,为“画家村”的建设和繁荣发展付出了十分辛勤的汗水和心血。 2010年8月26日,他的个人美术馆在“画家村”落成并隆重开幕,引起了当代美术界及文化艺术界的极大关注和强烈反响,这不仅是对中国美术事业的一大贡献,也将翻开中国美术史上光辉的一页。
“吴之东美术馆”在中国周庄国际画家村的赫然“鼎立”,无疑是中国当代艺术史上的一大盛事,是当下众多画廊和美术馆日渐黯淡和沈寂背景中所凸显出来的一个闪光的亮点。这不仅实现了这位旅日20余载的“国际桂冠画家”多年的夙愿,标志着他的艺术事业发展过程中一个辉煌的里程碑,同时为他的下一个艺术高峰之旅拉开了序幕;而且,对于弘扬中华民族的绘画艺术精神,为策动、激活和整合周庄“国际画家村”及周边地区乃至全国的艺术资源,加强艺术家们的沟通与对话,促进中外文化艺术交流,提供了一个务实、互动和发展的有益平台,具有十分重要的现实意义和深远的历史意义,成为“画家村”的一大人文景观。
吴之东的这一伟大创举必将载入史册。
“追梦巅峰”
在当今世界多元文化的背景下,在艺术“全球化”的声躁中,当许多艺术家争先恐后地追求抽象、荒诞、诡异、浮躁的“现代艺术”,或哗众取宠、故弄玄虚地玩弄行为艺术,或追求所谓气势磅礴的画面感和恢宏而深沉的历史感的时候,吴之东却以哲人的沉思、冷静的眼光审视现实与艺术,以东方人所特有的幽玄、虚静、超然、寂廓的美学理念和审美意识,以朴实的画风和精湛的技艺脱颖而出,备受瞩目。从某种意义上来说,吴之东的绘画艺术正是他对现代文明与人性的冲突这种人类生存困境的深刻反思和批判,以及对传统文化的蜕变和人文精神的失落深感困惑的产物,他以一个艺术家的真诚和敏锐,在现代文明纷乱无序的碎片中,在人与自然、动物三者的关系之间寻找到了艺术表现形式的最佳视角,达到了一种内心的平衡和自我的超越,形成了一个真正艺术家想要表达的视觉与精神的混合体,显示出一种内在的生命张力。“艺术总还是要有一种渴望,内在的驱策需要力量,才能在人类的精神上创造出新的价值。无论有意或无意,人类都会为这个他体内以精神形式存在的价值观找寻具体的形式”。(康定斯基《论形式问题》)
平时生活中显得十分低调和谦逊的吴之东,却在艺术创作中表现出非常严谨和高格调,他不断地追求完美,追求艺术与人文精神的高度结合。他的每一幅作品都是他经过冥思苦想、呕心沥血创作的结晶,都搏动着他生命的脉络和韵律,但他在创作过程中却是随心所欲、游刃有余,正所谓“运思挥毫,意不在于画,故得于画矣”。他的一笔一划、一点一缀、一勾一勒都饱含了他那无法抑制的创作激情和高尚的审美品味,蕴含着一种厚实、强烈而神秘的生命之力;一种冷静而理性的深度思考;一种对大自然环境的深切关注;一种对人与动物、自然的距离、疏离与亲近、融合的策略和演绎;一种豁达而洒脱的人生态度。这正他的作品能够不断创新,不断地走向完美境界的内在动力,也是他的人格魅力的映射和外化。
吴之东的绘画艺术的语言图式对于客观现实世界来说,只是各种符号的集合体。按照维特根斯坦的说法,我们可以用一种语言图式来模拟某种事件,语言对实在是一个指号。而在索绪尔看来,在语言系统里,指符是负载意义者,而所指则是指符所指涉的东西。指称乃是将指符与所指结合一起以产生符号的过程。一个符号必须理解为一种关系,这关系在指称系统之外并不具意义。所以,意义乃是一个本身无意义的再现系统之产物。因此我们可以说,吴之东在他的作品中所描绘的每一个动物形象、每一片风景,甚至每一抹色块和每一划线条,只是他的绘画语言体系中所表达出来的其审美理念和内心世界的各种符号,它们本身在形式上不具备任何意义,它们只是一个所指的能指。吴之东将这些符号加以分化瓦解与组合、提炼与纯化,通过高超的艺术技巧和独特的处理手法转换成某种神秘的镜像、隽永的意象和极具文化内涵的审美理念。从某种意义上说,吴之东的作画就像一个哲人在思考、在探求人类生存的价值和意义。
吴之东深受中国传统文化的熏陶,有着深厚的汉文化素养,再加上对日本文化的深刻领悟,在他的作品中,他坚决捍卫中国传统文化的合理内核,并相应地对日本民族文化中的某些“常识”和理念进行融和、整合和演绎。
在吴之东的绘画艺术作品里,我们可以从不同程度上感悟到两个最基本的特征:一是绘画母题的独特性,及其所反映出来的日本民族的深层心理结构和民俗文化形态;二是通过作品表达的极其微妙而神秘的生命体验所流露出来的禅意识。
在吴之东的作品中,猫头鹰是一个反复出现的形象,这不仅因为作者对这一具有神秘意味的“森林之神”情有独锺,而且通过这一母题的不断被强化,在日本人看来,猫头鹰是吉祥之物,是美好的象征。吴之东正是通过一系列作品对猫头鹰各种生存处境及其所表现出来的神秘性的描绘,从一种艺术化的符号表征揭示了日本民族的集体无意识和文化心理原型,从而使观赏者在观赏时得到了一种“内模仿”的心理体验和情感上的升华。
吴之东的绘画艺术是对中国传统艺术的解构与重建。非历史性的解构是以时间为隔板分割新旧、并将新旧套入进化论来决定生机活力,而绘画的发展和演变,大都是以图像为依据或者以图像为工具,由此构成的现代或后现代语境,在解构精神的同时,绝弃传统的支持,达到彻底自由的状态。在这种境遇中,吴之东采用直觉——禅宗的直超如来的方式来实现自己的审美理念,或者如古希腊的赫拉克里特所说的“我在寻找我自己”。
在吴之东的作品《翔》中,一只展翅飞翔的大鹏穿云破雾,勇往直前,而背景以日本最高的山峰——富士山加以衬托,其气势恢宏,大有气吞山河之势,歌颂了人类勇敢、顽强的精神,以及敢于挑战自我、不折不挠的英雄气概。而在另一幅同样以飞翔动物为题材的《鹤》中,展示在观众眼前的却是完全不同的感受。在一片散满金灿灿阳光的芦苇上空,几只仙鹤结伴而翔。这是一个寂静无人的世界,但充满了无限生机。深蓝色的天空将金黄色的芦苇衬托得更加明快跳跃,随风而动的芦苇使定格的画面活泼起来,加强了仙鹤的飘舞灵动之感。在这里,我们彷佛听到了仙鹤的鸣叫,犹如天籁之音。这是一种回归自然的呼唤,表达了作者对自由和美好事物的向往与渴望。
《一匹狼》表现了在一个乌云翻滚低压的苍茫原野,一匹孤独的狼从遥远而黑暗的地平线朝我们直冲而来,它那两只透着荧光像灯笼一样的眼睛,似乎在寻觅和企盼着什么。它没有家园,四处流浪(而流浪正是人生永恒的主题,人可以在一生中固守自己的家园,但精神的困扰和放逐却无时不在。)它那止而却步、犹豫不决又深感困惑的神情似乎在告诉人们:它到底从哪里来,又应该向何处去?这种深刻影响人类各种活动、甚至影响人类文明发展进程的最基本的心理因素——生存困惑与焦虑,在吴之东的笔下,在一个动物世界里被表现得如此真实和淋漓尽致,这正是人类某种生存状态另一个版本的缩影。
《暮》在视觉上给人造成一种梦幻般的感觉。暮色苍茫,夕阳西下,大地笼罩在一片凄凉、神秘、抑郁的昏暗之中,似乎一切都在孤寂中悄悄地消失,万物都将毁灭,是应该留下还是飞离而去?正是这两个大自然的生灵所面临的选择。画面上的光与影、明与暗、黄色与紫色、动物的动与静等绘画诸元素的强烈反差和对比,构成了一种内在的张力,表现了一个充满冲突和矛盾的痛苦的世界,使作者通过绘画艺术的表现形式对人类生与死的问题作了一次形而上的思考,对“存在与毁灭”这一古老的哲学命题作了一次独特而全新的演绎。
吴之东的绘画艺术风格是艺术发展的必然现象,是艺术表现现实的必然趋势下的必然产物。古典主义、浪漫主义早已无力承担表现工业生产时代人类生活的任务,现实主义在大工业生产时代,在人类面临自己创造出来的高度物质文明对自己生存选择的严重挑战的面前,也显得苍白无力,从而带给人们更多的思考与探索,于是,现代主义应运而生,而21世纪是一个散文化、多元化的时代,上个世纪的各种现代主义美术流派和思潮在对传统文化艺术的一片强烈的践踏和否定声中方兴未艾,而绘画艺术又面临着现代高科技、尤其是数字化图像构成技术的挑战,现代化的人文环境和不断变更的生活方式,改变着人们的价值取向和审美偏好。因此,惟有不断创新,不断调整自己的创作思路,不断革新和完善表现手法,合时代之魂,说民众之声,才能创作出伟大而不朽的艺术作品,才能立于世界艺术之林,为广大观众喜闻乐见。吴之东的艺术实践及其作品就是一个成功的典范。吴之东运用解构的后现代主义(deconstructive postmodernism)话语,演绎了一个充满生机的世界,他的作品是对自然和动物的人化,是人的对象化。在每一个形象符号里,在每一笔线条色彩中,无不折射出他自身的灵魂、信念和审美理念。
吴之东通晓东方文化,深谙西欧艺术。他认为,十几亿人口的中国,没有出现像毕加索、达利一样的巨匠,是我们民族的耻辱。他深知,墨守成规、固步自封乃艺术发展之大忌。吴之东的绘画语言大胆地打破传统的绘画语法结构和表现程序,采用超现实主义的表现技法、印象派的色彩,揉合中国水墨山水画的意境,表现出一种只可意味不可言传的物我两忘的境界,隐藏着一种令人难以悟透的、蕴涵人生真谛的禅机。
吴之东的绘画艺术作品具有一种潜在的逻辑空间,它的各种绘画造型元素和符号(包括线条、色彩、光影)包涵了“我”的延伸与“非我”的反射,个人无意识与集体无意识的积淀以及主体对于客体的相互作用等一系列无限丰富的意蕴。
艺术来自于对自然和生活的观察,更来自于对自然和生活的感悟。吴之东有着对自然敏锐的洞察力和深刻而独特的心灵感悟,有着深厚的写实功底,但他并不单单想复制一种零碎的、客观的现实景观。他在寻求一个根本的基础,一个必定隐藏在感知之易变性底下的“统一场”(unified field)理论。在吴之东的绘画作品里,所表现的虽然是具体的动物和特定的环境,虽然刻画得是那么精细而真实,可谓神形兼备,但并非真实的存在,它们具有某种神秘、甚至诡秘的意味,它们是荒诞的存在,使观众游离于真实与梦幻之间,处于一种可望而不可及的尴尬境地,观赏者与被观赏对象之间被不知不觉地相互置换,景观包涵了观赏者。画家的在场与形象的所指,使观众从视觉领域对形象的感知形式进而转入一种十分微妙的“内模仿”审美运动,成为被感知对象的“他者”。事实上,艺术语言的模糊性在逻辑空间中更能达到一种惟一精确的绝对真实,显示一种精神上和审美上的真实。对于吴之东来说,事态(包括动物形象和场景)在作品中出现既可以是真,也可能是假,但这无关紧要,因为作品所构成的逻辑思维空间作为事态而存在就足以证明自身的价值。
真正伟大的艺术家总是能够站在时代的前沿,在现代与传统的冲突之间作出自己最明智的抉择。吴之东的绘画艺术发展到今天,向我们提出的已不是一个“艺术必须反映现实生活”的问题;不是一个对传统的继承与创新的问题;不是一个“融合中西”、“油画民族化”的问题;不是一个纯粹艺术形式和审美功能的转换与演绎的问题;也不仅仅是一个传统文化的羁绊与主流文化导向能够左右的问题,它实际上向我们提出了人类生命如何与艺术互动和共存发展的严肃问题,提出了人类的生存危机与自然和谐发展的问题。并且从某种意义上来说,他的作品已成为我们理解现代文化对传统文化的挑战、超越、剥离与扬弃,以及实现人类自身本质力量的一个最佳例证,成为解构现代人的精神意识、艺术形式和审美倾向的十分有力的思想武器。这正是吴之东的绘画艺术的价值所在。
仅仅从视觉艺术形式的美学原则和写实主义的语法结构来解读吴之东的绘画作品是徒劳的,也是毫无意义的。吴之东所表现的艺术境界是超自然的境界(他通过描绘自然来否定自然),即客观世界经过心理世界的主观整合后所呈现的一个价值自足的精神景观,是区别于一般知解力的一种非理性的精神活动,更是吴之东内心世界的真实写照。因此,观众对其作品的审美过程,事实上是经历一次自身陈腐而世俗的价值观念的大地震,是回归自然又超越自然、净化灵魂、人性复苏的过程。吴之东的绘画艺术具有极其广阔的人文背景,他所追求的是一种能够体现人类共性的东西,具体地说,是一种人性化的东西。因此,他的作品具有持久而强烈的生命力。
吴之东崇尚自然,热爱生命,因为大自然的本质是生命。吴之东的绘画艺术既是对生命的迷恋,又是对人类生命本体的超越。
吴之东的绘画艺术具有中国传统文化的底蕴和神韵,又具有日本民族文化的特质,在造型观念上和表达技法上又体现出西方艺术的精髓。所以我们可以说,吴之东的绘画艺术不仅仅是属于他自己的,而是属于整个世界的。
晚唐著名诗人李商隐的《锦瑟》诗云:“锦瑟无端五十弦,一弦一柱思华年。庄生晓梦迷蝴蝶,望帝春心托杜鹃。”吴之东扬起艺术的风帆,展开梦想的翅膀,朝我们飞奔而来,经过多年艰苦的努力和辛勤地探索,硕果累累,成就非凡。如今,行年五十的吴之东仍不知疲倦,壮心不已,怀着他那永恒的艺术之梦,纵横驰骋千里路,喜看群山又一峰。
吴之东仍在走着,走向崇高,走向辉煌,走向生命的涅盘境地。
黄灿(中国当代著名美术理论家、艺术批评家)